愚痴と傾聴(ボラ)
昨日「私の親は愚痴を垂れ流すので嫌だった」という内容のことを書いた、んだけど
それはその通りで。
私は基本的に人の話を聴くことは、どんな内容でも好きなほうだと思う。
愚痴とか弱音って、誰も言いたくなるときがあると思うのだ
それを言うことを否定はしない。
でも例えば家族とか友人とか、という距離の近い人間と
患者さんみたいな距離の少しある人間とでは、少し意味合いが違ってくる。
もしくは基本的に問題を解決していこうという気持ちを持っている人と、
そうじゃない人の間、でも同じかもしれない。
愚痴をこぼすことで解決した気分になっているのだ、私の親は。
(そして、自分には落ち度は無い、ということも無意識かもしれないけど思っている)
話せばすっきりする、それでもうそのことは終わったかのような気分になっている、
でも問題を解決したわけじゃないから、また同じ問題が出てきて
するとまた愚痴を言い、言ったらすっきりして、また・・・・その繰り返し。
人の負の感情を受けるということが、どれだけエネルギーを必要とすることか、という
事を分かっているのだろうか?
私は子供のときから、自分の中にたまった他の人(親)の負のエネルギーを
自分で消化する方法を身につけることを覚えたので、今、基本的にそれ程
苦にならないんだろーなぁと思う。
そういう意味ではありがたい能力(?!)を得る事ができたわけで
親に感謝しなくてはならない、かも?![]()
一度はなしを聴くと、距離の近い人は、どんどん言ってくるようになる、場合もある。
その量ははんぱじゃない。
(人によってそういう人とそうじゃない人がいるけれど)
それはキツイ言葉で言えば、甘えだと思う。知っている人になら言いやすいから。
でもある程度距離のある人は、それができないから、程ほどにこぼす、
そこの違いなのだろうか???
それとも患者さんは嫌でも自分(や自分の病気)と向かい合わないといけない、
そういう人たちは何か悟っているのかもしれない、
愚痴をそっとこぼしながら、弱音を出しながら。
そこでそっと受け止めてくれる人がいれば、また少し前に進める、
それを知っていたのではないだろうか。
私はそういうことを患者さんたちから教えてもらった。
決して言ってはいけない、とは思わない。
ただ私は私の親のように、愚痴を言うことで目の前の問題からいっつも目をそらして、
逃げているような人生、自分には落ち度は無いのだと思っているような人生は
尊敬できない。
というかあそこの職場で働くまでは自分だって同じように生きてきたのだ
(恥ずかしいけど・・・。)
自分の生を必死に生きていた人たちに、心から感謝してる、
彼ら彼女らには当時の私は必死に生きていないということが見抜けたから
色々話しをしてくれたのかもしれない、と、思ったりする。
人ってそれ位敏感なものなのかもしれない、
だから自分がこれからそういう人たちを相手にボラをしようとするには
技術よりも、それなりの自分の人生に対する自信、自分に対する自信、が
もしかしたら必要なんじゃないかと思ったりする。1人の人×人、として
立場は違うけれど向き合い寄り添って同じ方向に向いていくには。


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