雑感

人を呼ぶ力

今日で試験が終わりーーー

あと2科目っ!でも、しっかり読み込まないと回答不可能であろう2科目が

残ってしまった・・・休日は少しゆっくり寝たいところだけど

いつもより早く起きて教科書と格闘

小学校のプール解放当番で行ってきたんだけど、連合(子供会)の方から頼まれたので

私がもう1人お願いして、自分とこの字の会長さんにも来てもらったのね。

今年の子供会、子供達が主導で計画、実行、など行われているようで

(私は字の方には直接係わっていないのでよくわからないけれど)、

この前も行事を1人の親としてみていたとき、子供達なりにしっかりやってるなぁ、と

感動したのね。

子供達主体に行うには、それを仕切る親(役員)に忍耐が必要だろうし

それなりにはっきり言う必要も時としてあるだろうし(良い悪いということを)

口もつい出したくなるときもぐっとこらえて

・・・・いやーまとめ上手なんだろうなぁと常々思ってた

彼女は自分でもよく言うんだけど、ものをはっきり言う人なんだよね、

(昔、この手の人は苦手だったんだけど)

だから誤解されるときもあって(実際連合の方とちょっとあったときがあって)

私も「そこまではっきり言っちゃうか?」と思うときも確かにある、んだけど

彼女のいいとこは、筋が通ってる、というか信念がしっかりしてる、というか

周りに流されない、というか。そういう意味じゃ、敵(?)も多いのかもしれない。

そして彼女曰く

「やるなら楽しい方がいいじゃんね?」

その通りっshineと私も思うのだ。

いやいややっているのは、伝染する。

いや、何でも伝染する(だから類は友を呼ぶって本当だと思う)

彼女の周りには前向きで楽しいことを追及する人が集まってるんだろうなぁ

人を上手くまとめるのって、技術もあるかもしれないけど

それ以前に自分が持っているエネルギーによるのかもしれない。

(+のエネルギーには+のエネルギーが反応する、っていうか)

自分の意識って大事なんだなぁ。

| | コメント (0)

自分の人生

以前「じぶんのため」という文章を書いたけど、

日本では「自分のために生きる」という選択は、良くとられないんじゃないかと思う。

誰かのために生きる、ということが美しいととられる傾向がある、

子供ため、とかだんなのため、とか

良妻賢母という言葉もあるしね

私は良妻賢母ということばは好きじゃないけど、だって、その言葉の裏には

「自分が支えているおかげ」という共依存的な感じを受けてしまう。

それに「1人の人間」としてみてない言葉、のような気もしてしまう。

母、妻であれば(他は)要らない、というか。他の生き方は要らない、というか。

それは本当に人(女性)を大切にする言葉とは私には、思えないのだ。

私はこの10年間、ずっと幸せになりたいっ、って思ってきたけど

私にとっての幸せとは「自分の足で歩く」ということだということに気が付いてしまった。

自らの意思で、考えで、自分自身で、人生の選択肢を選びとり、その選んだものを

大切にし、その繰り返し。

社会で言う「いい母親」とか親の言う「いい子供」は

本当に「いい」ものなんだろうか?「いい」という言葉の中には「正しい」という意味も

多分に含まれていると思うけれど。

女は結婚し子供を産み母として生きることが「素晴らしい」「よいことだ」という

(世間の)考えに洗脳されているだけかもしれない。

(もちろん、自分自身の考えとしてそう思っている人もいるだろう。その違いは

すぐに分かってしまうけれど。)

世間で言う常識は本当に常識だろうか?

テレビ、雑誌、本、誰かのことば・・に操作されているだけかもしれない。

私の考えはもしかすると日本的ではないかもしれない、だから

自分勝手って言われるかもしれないけれど、

少なくても私は日本のために生きているわけじゃないし、世間のために生きているわけ

でもない!(笑)

自分で考えて選び取った人生があって、その結果、例えば子どもがいたり、

今の仕事についていたり、友人がいたり、社会活動に参加したり・・・

自分を大切にする、ということはどういうことか?

自分を大切にすることができない人は、誰も大切にできない、

それは気持ちとか波長とか念(?)とか言うものは、無意識にまわりに飛び散るもので、

だから上辺だけ幸せとか大切とか思っていても

伝わるときには歪んで伝わってしまう、ということだ。

私の家族関係はそうだった。(私の親は自分を大切にしてなかったと今ははっきり分かる)

今の彼もそうだし。(彼は自分を大切にしていない)

私もできてるかっつーと、大いに疑問、だけど、

はっきり言えるのは、私はもう共依存には戻りたくないということだけだ。

自分の足でしっかり立ちたい。

| | コメント (2)

価値観

私の親は、自分が良いと思うことは絶対良いことで

悪いと思うことは絶対悪いこと、という考えだった(と思う)

というか自分の考えに違うことをすると、おもしろくなかったんだと思う。

小学生の頃から、私は思っていた、

「私は考えが違う」と。

でもそれを口にすると恐ろしいことになるので、口にはしなかったけれど。

大人になった今は、どんどん言っている。

(言い方は考えるけどcoldsweats01

自分と子供は別物だということを、親に分かって欲しいとは今は思わないけど、

私は今は大人になったので、それで親に何か言われても、勝手に言っていれば?

(てきとーに流す)というような感じだろうか?(笑)

世の中の「これが正しい」といわれているものは果たして本当に正しいのだろうか?

と疑問に思うことはよくある。

(逆に言うと、自分が良い、と思っていることはホントに正しいのだろうか?とも)

いや、間違っているということじゃなく、それがいい場面もあれば、よくない場面もある、

何にでもリスクはあるような気がする。

自分の価値観だけに添って子供を育てると、多分子供は自分と同じ価値観を

持つようになるものなんだろうか?

そこで子供に「違う」「私はそう思わない」って言われて

それを認められる親はどの位いるんだろうか?

親は子供に、自分が思うような大人になって欲しい、と思うものなんだろうけど

(私にもある程度、それはある)

私は親が思うような大人にならなかったように(それは自分で望んだこと)、

私の子供は私の思うような大人にならないかもしれない、

まぁそれはそれで構わない、だって自分がしなかったことを子供にしろなんて

言うのは好きじゃない。

私にとって生きることは哲学することなんだろうなぁ

答えなんてどこにもないし、正解なんてものもどこにもない、

だから迷うし悩むけど

親からの人生支配でもなく、世の中の価値観でもなく、他人の評価でもなく

自分で自分に問い続けるだろう、なぁ。

自分で自分に問い続けるためには、多くの、色んな人と出遭い、そこから色んな何かを

感じ取ることが必要な気がする。

| | コメント (0)

適度な運動

今日はバドミントンの大会日。

私のチームは残念ながら決勝トーナメントには行けなかったけれど

かなり楽しく、でも真剣に試合ができた。

体育館はとっても暑く、開会式から汗だく(笑)

試合も3試合あって、結構疲れた・・と思いきや、午後から学習センターへ行き

4回分授業を見てきた。

その間ずっと頭はさえているし、集中力もあるし、

なにより肩こりが解消されている!

10年ほど前の数年間スポーツクラブに通い、主にスタジオプログラム中心に

トレーニングを積んでいたとき、

仕事が終わった後でくたくた(もしくは仕事がハードな週の休みでくたくた)なはずなのに

いざ始めると、身体が軽くなり、汗をかいて、すっきり。

悩んでいた肩こりもすっかり無くなり、体脂肪は減るし、体力はつくし

ぐっすり眠って次の日一日がすっきり過ごせていた、という事実を経験済みなので

肩こりには適度な運動が効く、とずっと思っていた。

でも、集中力がつく、っていうか頭も冴えるんだよね、不思議と・・・(私だけか?)

今の仕事になって夜になると眠くて仕方んなくて、あまり思うように好きなことが

できなかったけど、スポーツすれば、体力もついて、少しのことじゃへこたれなく

なるんだろーなぁ、、、、と。

そんな風に思っていたら、丁度試合合間の雑談中にいい情報を仕入れた。

うちのすぐ目の前の建物が以前ゲーセン&某スポーツクラブが入っていたけれど

今それが解体されていて。で、何ができるのかなぁって思っていたら

また某スポーツクラブが入るらしい。

よし!入会しよう!

徒歩1分だし(笑)できる頃には2人とも中学生で帰宅も遅いし、

2時間くらいいなくても(今でも)全然平気だし。

ついでに、前から言っているテニスも(笑)どこでもいいから入ろうかな。

(まぁ今年の役員掛け持ちが終わったら、だけど)

とにかく、改めてスポーツの楽しさを味わえてよかった一日でしたhappy01

| | コメント (0)

好きだった人の現在

以前、すごく好きだった人がいて。

その人と「将来どういう風になりたいか?」という話しをしたことが、あった。

私は「今みたいな大病院じゃなくて、小さな医院で仕事をしたい(できれば

ここの病院から開業するDrについていきたい)どうしてかっていうと、

ひとりひとりともう少し丁寧に係わりたいから」というような内容のことを言った。

その人は

「自分はいつか地元に帰って、小児外科をやりたい」と言った。

(当時は普通の消化器外科にいた)

「自分の地元にはあまり専門医がいないんだ」と。

「子供の病気は、子供には罪は全くないから」と。

具体的に、どこの病院でやりたいかも、聞いた。

私は「じゃぁ私ががんになったら見て貰うからね」と笑いながら言ったら

意味がわからなそうな顔をしていた。

「だからーー、私を治してもらわないと困るから、ちゃんと腕を磨いてよね、っていう

意味だってば」って付け足すと、笑っていた。

あれから10年近く経って、私はそれに近づいては、いない。

むしろ遠ざかっている。

その人は、今、とある大学病院で「助教」になっていた。ってことは

今大学で教えてるんだろなぁ。外来ももって、オペもたくさんして。

そして、いずれ助教授になって、もしかすると教授になるのかもしれない

それとも経験を積んで、あの時言った病院へ行くつもりなのかもしれない

とにかく、着々と自分がなりたいと思った自分に近づいているんだなぁ・・・

別の人は、東京に行って、大きな会社のコンサルタントをしていた。

こつこつと地道に勉強をする人で、難しい資格にもチャレンジしていた。

今は大きなセミナーの講師なんかもしているらしい。

私に心理学の世界を教えてくれたのは、その人だった。

「その頃(30代~40代)は、大きな壁があって。でもそれに気が付いて、乗り越えられるか

どうかによってその後が大きく変わるから」と何度も言ってくれた。

私は、あの頃の私と、何も変わっていない。

「絶対なるから」って言ったのに、まだ何も変わっていない、それがとっても悔しい。

でも、いつかきっと必ず、私も実現するから、

そのために少しずつこつこつとやることを、忘れないように。

おだっちの「風のように」が、数年前から突然心に染み入るようになった。

ここから先へはもう進めないと くじけそうになるときはいつでも

きみのことを思い出して 歩き始める もういちど

そこから逃げれば 夢はないだろう

振り返るのは 最後だけでいい

誇りある道を歩いてく どんな時も

やがていつか ひとりだけに なってしまうとしても

「好き」でも「嫌い」でも「愛してる」でも「愛していない」でもない、

説明のできない存在の人。

その人たちから会いたいって連絡が来たとしても、決してそうしないと思う、

過去の人だから。

でも大切に思っている。

大切な色々を教えてくれた、大切な人。

そのおかげで、今の彼に出遭えたんだろうから。

私も、がんばる。

|

自立を嫌がる?親

私の親は、とにかく私を支配したがっていた。(後から思えば、だけど。)

そして私はそれが苦痛で仕方なかったんだけど、それでも従っていた。

以前『毒になる親』を紹介したけれど、あれにぴったり当てはまる私の親は

まさに『毒になる親』だったというわけだ。

それは私自身がそのことに気が付くまでは毒になる親、だったということにも繋がる

わけなんだけどsweat02それに気が付いたらからすぐに治るっつーモンでも無いとも

思うけれど、取り合えず気が付いただけでもよかったと、思っている。

さてさて。

ここで冷静に振り返ってみると、私の親はよく

「私達のいうことを聞いていれば間違いないのよ」と本当にしょっちゅう言っていた。

本当にそうなのか?と疑問を持ちつつ、そうしないと恐ろしいことになるとも

知っていたので、従っていたわけだけど、それを初めて破ったのは

結婚したとき、だろうか。

でも結果として離婚したわけで(今思えば離婚したことは大正解)

その時「ほら、やっぱり」「言うことを聞かないからだ」としつこくしつこく言われ

その頃からやはり私は親の考えとは違うんだということにはっきりと気が付いた。

「失敗することはよくないことだ」という考えが根底にあると思われる。

そのほかに「離婚することは恥ずかしいことだ」という考えもある。まぁこれは親の年代

では仕方ないことなのかもしれない。でもそれをはっきりいわれた私って一体・・・

ここで関係ない話になるんだけど、いつも行く美容院のお兄ちゃん(30歳だけど)も

バツイチ、しかも結婚して1年くらいで別れてしまい、現在は子持ちバツイチ女性と

再婚し、幸せに暮らしているようなんだけど、その彼が離婚したとき

「おやじに、しばらく黙っていた後『まーそーいうこともあるな』て笑っていわれて

拍子抜けしたんですよ」って言われたという話をして、私は「うーんいいお父さんですねぇ」

と答えたら「え?そうですかっ?」って言っていたけど、離婚したことがいい事という

意味で言っているんじゃなく、「そういう選択をした息子」そのものを認めてあげている

ということが伝わってきて、そういう意味でいいお父さんだと私は答えた、んだけど。

話しを元に戻すけれど

だから私は親に、何事においてもいつも先回りして、失敗しないように設定されてきた。

でも思うんだ、失敗することはほんとによくないことなんだろうか?と。

大切なのは自分が悩み、考え、決めたことを実行してみる、ということなのでは

ないだろうか?と。そして、その結果の責任も自分でとる、それが自立すると

いうことなんじゃないのかな??

もちろん、小さいときは自分で決める、責任を取る、ということは困難だろうから

親が示してあげたり、カバーしてあげなきゃならないのだろうけれど

(これは以前付き合っていた彼に言われた)。

「失敗しないように」してあげたい、というのは、実は親のエゴというか支配したいという

気持ちの裏返しのような気がする。

支配したいという気持ちは、子供の自立を妨げることだと、思う。

失敗しないようにさせたいということは、無意識のうちにそのように親が設定している、

というか、親の思うような人生(失敗しない=上手くいっている人生)を歩ませたいという

やはり一種の支配、そんな気がする。

私は、失敗するときもあるんだと、思う。間違えてもいいんだと、思う。

大切なのは、失敗してもあなたはあなただ、という気持ち、っていうか

それでもいいんだよ、という目というか。上手く言えないんだけど。

そこから立ち直るのも、自分自身の力、でもそっとフォローしてあげる、

どこが悪かったのか、どこを変えればいいのか、それを見つけるのも自分自身、

でもそっとフォローしてあげる、難しいけど。

何でも失敗なく、完璧にできることなんて、あるんだろうか??

間違える時だってあるし、至らないことだってあるし、不完全なときもある

・・むむ・・・レミオの「Wonderful&Beautiful」の歌詞に似てるぞ(笑)

でもそういう自分も自分なのだと思えることのほうが、失敗しないということより

大事なような気がする。

もちろん同じ間違いを何度もするのはどうかと思うけれど・・

(そーいう意味では私はあまり言えないんだけど・・・coldsweats01

失敗するときもある、でも反省はしっかりしたい、そして次に生かす、

まず私自身がそのようにすることなのかな。

(親に関しては、他にも書いてみたいことが山ほどある・・・coldsweats01ホント子供に依存する親

なんだよね・・・coldsweats01重いっつーか、自分自身のことや、自分の気持ちの面倒を

人に見させることがこれほど不快且つ恥ずかしいことなのかということが嫌ほど分かり、

自分自身の反省にも繋がっている、だから

それはそれでいい経験なんだろーけどさcoldsweats01

| | コメント (4)

世渡り上手

昨年の話だけど。

修学旅行のお土産を先輩から貰ったはかせ。

もらったものは、地域限定ハイチュウ。

それをうっかりパソコン室のデスクの上に置きっぱなしにしてしまい

「おかぁさん、貰ったお菓子を学校に忘れてきちゃった、どうしようぅぅ」

学校はお菓子禁止(まぁどこもそうだろうけど)

それを知っているので、見つかったらやばい、とあせるはかせ。

なんてバカな・・・・すぐしまえばいいのに・・・

仕方ないので先生に事情を話したところ、修学旅行の後はそれぞれの部活で

お土産のやりとりがあるから、ということで見逃して(?)もらったんだけど、

実は普段の部活の最中でも、飴とかやり取りがあるみたいで

「おかぁさん、今日先輩にキャンディーもらったけど、よかったのかな?」

と聞かれたので

「いいだよ、そーゆー時は『ありがとうございます』ってお礼言ってもらっておけば

それでいいだよ」

と答えた。

私の勤務先でも、時々体育館裏にお菓子の包み紙が落ちていた、とか

かんだ後のガムがあった、とか言っている。

もちろんきまりで「お菓子は禁止」といわれてはいるから

堂々と「別に食べてよい」とは私は思わない、んだけど

コッソリ食べたい、という気持ちもわかる(自分もそうだったし)

先生の目を盗んでいかにわからないように食べるか、

そういうのも知恵というか?(笑)

例えば部活の友達が持ってきて、皆でコッソリ食べよう、ってことになったとして

これを読んでくれた人、そこのあなた(笑)どうする?

決まりだから「要らない」ってキッパリ断る?

何となく付き合いでもらう?

私も食べたかったんだーと言って喜んでもらう?

まぁ人それぞれなんだろうけど、そこでいつもいつも生真面目に「決まりは守らなきゃ」

と、私は言わないだろう。

いや、基本的に決まりは守りたい人だ、でも、そういうのもアリかな?と私は思う、

矛盾しているけれど。

いつもいつも規則を破るようじゃいけないとも思うけれど。

そういうのって親が教えるっていうより、子供の中のやり取りで学んで行くというか

難しい所だけど(笑)

(規則を破ってもいい、と言ってるのではないです、念のため)

そういう崩し方(?)は私はありかな、と思う、けれど

そうじゃない人だっているだろうから、難しいところなんだけど。

しかし、社会に出て上手く世渡りしていくには(生真面目じゃ生きていけないし・・・)

そーいうのも必要なのかな?なんて思ったりしますが、どうなのかな?

| | コメント (0)

教育ママ

以前も「学歴」ってなんだろ?っていうようなこと、書いたけど。

勉強はそりゃできないより、できたほうがいい、

でも、いい高校とか大学とかに、どうして拘るのか?

私は自分では拘っていないつもり、だったけど、中学受験を少しでも考えた時点で

自分だって拘ってるじゃん?って思った。

思うに、さっきもはかせのとこで書いたけど、色んなタイプの子供の中で

もまれた方がいいような気が私にはする。

学校って社会の縮図、っていうか社会とそう変わらない、よーな気がする。

子供か、大人か、という違いはあるけど、

人間関係のあり方はそう変わらない(よーな気がする)

だから学校で上手くできれば、社会でもまぁなんとか上手くいくような気がする。

(学校で上手くいっていても社会で上手くいかなくなっちゃう場合はあるだろう、

でも学校で上手くいかなくって、社会で上手くいくのは難しいような気もする)

タイトルから話が既にそれているけど、

私の勤務する学校は、市内でもトップクラス(成績が)。

市内で一番の高校へ入る人数が他の学校の4~6倍くらい多いんじゃないだろうか。

見た目はいわゆるいい子が多い。でもなんていうか、中学生っぽくないんだよね、

それは最初来た年に思った。なんていうか、自分の中学生時代を思い出すような(笑)

それを物語っているかのように、教育ママがわんさといるんだよね、ホント。

○高以外は高校じゃない、と言い切る人が多くて、

どうやっても受からないっていうのに、押し切って受験させる。

(結局落ちる)

でも教育ママゴンたちは「○高を受けた(落ちたけど)」というハクがつくことが

いい、らしい。「記念受験」とか、一体なんだ?

うーーん、よくわからん・・・

いや、「私には」よくわからん、でもわかる人もいるんだろうなぁ。

「部活をばりばりやっていたのに、○高に受かった子がいて、ホント親孝行」

だという話しをした、という話しを(直接)聞いた。

私は、何か違和感を感じた。

○高に受かることは親孝行なこと、なんだろーか・・????

私にとっては、別に親孝行なことではない。

○高だろーが▲高だろうーが、◎高だろーが

本人が行きたいと思い努力した結果合格したのなら、それは嬉しいことであるけど

どこの学校に受かっても親孝行だわ、などどは思わないのだ。

何か結局親の見栄なのか?

子供が○高に受かったという話になれば、ほぼ間違いなく「すごーーい」という

反応が起こる、それがその親のアイデンティティとなっている、のだろうか??

子供の評価=親自身の評価、となっている、のだろうか?

まぁそう思う人はそうすればいいんだろうけれど、私は、子供が、有名高校や大学に

受かったとしても(はかせはありえないな・・・・coldsweats01

それは子供の評価であって、私は私の実力(そんなモンあるのかわからんけど)を

発揮して自分の評価を得たい!!

またしてもタイトルから離れているけど、学歴は、そりゃないよりはあった方が

いいのかもしれないし、無名大学より有名大学のほうが、いいのかもしれない、

けれど、それで社会で上手くやっていけるということは必ずしも=で繋がらないのでは

ないんじゃないだろうか?

勉強もスポーツも人間関係も、って求めすぎているような気がする。

それでうちの学校の生徒は疲れている(笑)

前も書いたけど、人のふり見てわがふり直せ

自分の本心をちゃんと見つめなおして、自分の行動言動の反省をしなくっちゃ・・・・

| | コメント (0)

愛されること

ここんとこずっと職場での話題に、あの秋葉原の事件のことがのぼっている。

新聞や、ネットで読んだものが本当だとすると

あの彼はどこにも逃げ場がなく、愛されているとか大切にされているとかいう

実感がまるでなく、心はずっと1人だったんじゃないかと思ったりする。

家族(親)との信頼関係が作れなかったということは、他人を信用することも

できなかったんだとも思ったりする(それは自分では分からないんだけど。)

成績が下がったとしても、大学に入れなかったとしても

「それはそれでよい」「そういうこともあるんだ」そして、その後が必ずしも

上手くいかないことばかりではない(それは本人の努力次第なんだろうけど)

ということを教えてあげるのは、私は親の役目ではないだろうか、とも思ったりする。

「親に厳しくされていても、犯罪を起こさない人もいる、(起こすことは)

だから人を殺しても良いということとは違う」という意見が出たけれど、

確かにそうだと思う、彼には甘えがあった。

「誰かに止めて欲しかった」っていうのも、

「彼女ができないのは容姿のせいだ」っていうのも、

甘えでしかない、と思う。

でも。でも。

そういう形で爆発してしまうほど、彼は甘えたかった、

ずっと抑え続けてきた「甘えたい心」を思うと、胸が痛むのだ。。。。

さっきの「親に厳しくされていても・・・」のセリフの中には実は

「厳しくすることは悪くない」という考えがあるような気がしてならない。

いや、厳しくてもいいんだけど、

甘やかすんじゃなく、甘えさせてあげるという意味での「甘え」

厳しさの中に「甘えさせる」という飴は必要なんじゃないだろーかな・・?

私はずっといい子をやってきたと思うので、そういう意味では

彼のやったことは許せないけれど、奥の奥を考えると、胸が痛い。

いい子はいつまでもいい子ではいられない。

あたり前って言えば当たり前なんだけど。だって、「いい子」は「私自身」じゃぁ

ないんだから。いつか必ず「私自身」の芽が我慢しきれず出てくるんだよね。

いや、死ぬまでそれに気が付かない人もいるんだろうけど。

それはそれで幸せなのかもしれない。

「親の教育のせいにして」って思う人も多分いるんだろうけれど

いつか書いた、

自分を癒すには一旦棚上げしないとできない、って。

「親のせいだ」って声を出して言っていいんだって、私は思う。

きっとその後、また別の気持ちが芽生えてくるだろうから。

愛されたことが無いんだろうな。

大切にされたことが無いんだろうな。彼は。

だからあんなにたくさん殺してしまった。

誰か1人でも自分を大切に思ってくれているんだって実感できていたのなら

彼はあのようなことはしなかったんじゃないかな、って勝手にだけど、思う。

自分を愛せて、自分を大切にできて、他人を愛せる(大切にできる)って思うし

あちこちにも書いてある。

でも愛されたことのない人が自分を愛せっていわれても、難しいよね。

やっぱ親とか家族とかが愛してくれて、それを実感できたからこそ

自分を愛し、大切にし、他人も大切にできる。

同じ「大切にされなかった」として、犯罪を起こす、起こさない、の境目は

そこにあるんじゃないのかな

そう思うと、私は、愛されてきたのかな、今でも好きじゃない両親に。

(多分一生「好き」にはなれないだろうけれど)。

そう思うと、彼は本当に愛されてこなかったのかな、誰にも。

胸が痛い。(何度も言ってるけど)

こういう子供が増えませんように。。。。

(注 この文章はあくまでも私の勝手な憶測で書かせてもらいました)

| | コメント (0)

ストレスよ、さよーーならっ

今年は、人間関係の枠がぐぅーーんと広がった気がする。

今までの仕事&ボラ(元々あった友人関係は抜かして)に加え

子供会、ボーイスカウト、組合・・・

色んな人と接触して、見て、

当たり前のことを当たり前に(さりげなく)できる人っていいなぁって(私は)思った。

当たり前のことを「特別(なこと)」にする必要は、どこにも無くて。

当たり前のことを特別(なもの)にしよう(変えよう)とするから

疲れるんじゃないだろーか、と。

当たり前のことを特別なものにすれば、第三者の目には確かに「すごいなー」って

映るけれどね。でも少なくとも私にとってはそれはどーでもいいことだなぁ。

日常は淡々とやりすごし、(私は、淡々っていうよりてきとー、と言ったほうがいいかも)

自分に大切なものはじっくり取り組む。

そうやってストレス発散(笑)

さー朝ごはんをちゃちゃっと作って、ぴーすけの観察だわ(笑)

| | コメント (0)

「毒になる親」

「愛する」ってどういうことなのか、わからなかった。

「安心感」とは何なのか、わからなかった。

「しあわせ」とはどういうときに感じるどういう感覚なのか、わからなかった。

自分がACではないだろうか?と思うようになって3年くらいだろうか?

「親は大切にするもの」

どうして大切にしなくちゃならないのか?会いたくもないし、話も最低限しかしないし

うっとおしい存在でしかない。(なかった?)

思えば、母は共依存な人だったんだろうな、

常に子供を支配していた。

私とやり合ってから(笑)少し変わったのか??よくわからないけど、

あまり気にならなくなってきた。

でも、多分私のことを支配できなくなったので、その矛先が妹にずっと向かっていたのは

わかっていた。

そして母の思う幸せを、妹に押し付け、

バカな妹はそれを受け入れ、再婚した。

あ。別に再婚した旦那さんが変な人っつー意味じゃない、

いい人すぎる、っていうか「普通」の感覚を持っている人だと、直感で感じた、

だから、多分妹が物足りなくなる、っていうか違和感感じるようになるんじゃないかって

不安に思ったりする。

彼女は自分が親に支配されている、っていうことに気が付かないと

幸せにはなれない、って思う、だから、妹が再婚したときは正直素直に

喜べなかった。(母は喜んでいたけど)

だから、しばらくずっと実家とか妹から、距離を意識して置いていた。

自分の中でちゃんと決着つけるには、共依存(であろう)な人と離れることが

必要だと思っていたから。

「毒になる親」っていう、きつーーーい内容の本があるんだけど(笑)

これには「毒になる親を許す必要はない」と書かれていて、画期的なんだけど(笑)

自分の中で本当に消化するには、一旦棚にあげる必要がある

と言われ(これは彼に言われた)

その意味がよくわかんなかったんだけど、その頃これを読んでいたら

なるほどなぁって簡単に棚上げできた、かもしれない。

帯に恐ろしいことが書かれているtyphoon

子供は一生苦しむ

毒になる親に傷つけられた子供の心は、年を重ねても癒されることはない

不安、怒り、過剰な義務感、つきまとう罪悪感

ひえぇぇcoldsweats02

まぁでもそうかもしれない

でも、親を恨む気持ちってだんだん減ってくる、っていうか

まぁいいか、みたいに思えてくるのは事実かも。

そーいう自分と付き合っていこう、って思える、っていうか。

毒になる親に育てられた子供は、愛情とは何なのか、人を愛したり愛されたりすると

いうことはどういう気持ちになることなのか、ということについてよくわからず

混乱したまま成長する。

その理由は彼らは親から「愛情」の名のもとに「愛情とは正反対のこと」を

されてきたからなのだ

(中略)

本当の愛情とは何なのかがようやく理解できたとき、自分の親は愛情の無い、

または愛情を理解することのできない人間だったのだということを

思い知るだろう。このことこそあなたが受け入れなければならない、

人生で最も悲しい事実なのである。けれども、はっきりと親の限界を知り

彼らのおかげでこうむり苦しんだ被害について明確に確認することが

できたとき、あなたは自分の人生において本当の愛情であなたを愛してくれる人たちの

ためにドアを開けることになるだろう

(中略)

人間として真に成長するのは平坦な道のりではない

不安、恐れ、罪悪感、心の混乱、などといったものが永久になくなることは

ありえない。そういうものがないという人間はこの世に存在しないのである、

だが、あっても、もう左右されなくなる、これがカギなのだ

(後略)

「自分の幸せってなんだろう?」

「幸せになりたい」

心から願ったときから、きっと変わっていくんじゃないかと、思ったりする。

この本では「一生許せなくても良い」と言ってると思うけど、

そう言ってくれるからこそ、許せるんじゃないかと思ったりもする。

「許さなきゃ」って思っていると、いつまでも本当の意味では許せないような気がする。

それこそ一旦棚にあげて初めてできることなんだなぁって、これは実感。

(棚にあげっぱなしになってしまう人もいるのかも知れないけれど)

前、言われたんだよね

「自分が許すのは自分自身」だと。

その時は意味わかんなくて。

でも今ならわかる。なるほどなぁ、って。

「毒になる親」に育てられた私は多分「毒になる親」なんだろーなぁ

でも自分を責めることはしない。(それでよしとするということではない)

ただ「ありのまま」を認める(これが難しくて、最初全然できんかった)

反省も、もちろんする。

私は今、自分の親のことを恨んだりしてないし、会いたくないとも思ってないし

(いやまだ100%とはいえないけど)

親も苦しんできたんだと、なんとなくわかってきた(ような気がする)から。

私が完全回復することは難しいような気がする。

40年かかって作った借金は返すのにも40年かかる(前にも書いたか・・)

だから死ぬときにやっとこさ全てがわかるような気もしている。

まぁぼちぼちと行きましょう(生きましょう)、ぼちぼちとsnail

| | コメント (3)

じぶんのため

 自分が今している、色々なことは、どうしてしているんだろう?

 子供のため?

 親のため?

 旦那のため?

 世間体のため?

 学校のため?

 知らない誰かのため?

 愛する誰かのため?

前は、例えば子供会の役なんかは「子供のために、やっている」なんて

思っていたけど、最近は何かちがうなーと感じたりする。

自分が今やっていることとか、ついている仕事、身の回りで起こった状況、

などなどもろもろの全ては、全部自分が選び取ってきたものだと思う

(この前書いたけど。)

だから、やっているすべてのことも、誰かのためじゃなく

自分がやりたくてやっているんだろうなぁと思う。

山のような洗濯を干したり、毎日食事を用意したり、仕事に行ってくたくたになるのも

全部自分がやりたくて、やってる。

自分のためにやってる。

それは自分勝手に生きる、ということとは、違う。

そうじゃなく、自分の人生を誰かのためのものにするんじゃなく

自分のためのものにしたい。

もちろん家族も仕事も勉強も趣味も全部大事なものだけど

自分のために人生を使えなくて、どうして誰かの人生を大切にできるのだろうか?

誰かの人生を大切にするには、どうやって人生を大切にしたらいいのか

方法を知らないと出来ないように思う

(それは机上とか理屈とか想像でわかるものでは無いと、私は思う)

結局、経験、なんだろうなぁ

経験したことのないことは、どうやってもわからないんだって感じる。

そういう意味で、平凡な人生って、私はつまらない(笑)

| | コメント (0)

憧れの乗り物と便利さと。

私の小学校の修学旅行は東京だった。

私の1つ上までは、伊勢へ日帰りだったのだけど、私の代から

一泊で東京になったと聞いたとき「やったー」と思った。

東京へ行くのは初めてじゃなかったけれど、すごく嬉しかった。

半日バスにゆられ、到着した最初の場所が、羽田空港だった。

私の住む県では飛行機は全く身近な乗り物ではなかった。

空港は無いし(よって、飛行機を見たこともない)、それより当時は飛行機は

お金持ちじゃないと乗れないものであると、思っていた(笑)

まさに、憧れの乗り物。

だから羽田空港を見学できるというのは、夢のような出来事で(笑)

ターミナルビルの屋上(多分)で持参したお弁当を食べた。

下の方を見ると、飛行機がいた。

感動したなぁ

大人になって、初めて飛行機に乗ったとき、すごく感動した(笑)

嬉しくてね、1人ではしゃいだりして(笑)

子どもの頃から、東京の全てが憧れだったなぁ(田舎モンだったからかな?)

どうしてだろう?理由はよくわからないけど、あの頃から東京に住みたいって

思っていた。(今も思っているけど)

そーそー、子どもの頃、他に憧れていたのが、新幹線の食堂車(笑)

浜松からは当時はこだましかなく、こだまには食堂車が無かったんだよね。

いつかひかりに乗って、食堂車を利用したかったんだけど、その前に無くなってしまった。

新幹線といえば、昔は冷水器がついていたんだよね。

紙コップが設置されていて、それに注いで、飲む。

意味もなく何回も注いで、飲んだりして。飲みたいわけじゃないのに(笑)

でも、どうして冷水器がついていたのだろう?

鉄ちゃんだった彼にも聞いてみたけど、わからないよねぇ、で終わってしまった(笑)

乗りたいといえば、ブルトレもまだ乗ってない。

昔は時刻表にも「寝台列車」のページがちゃんとあったけれど

今は無くなっちゃったね、まぁあれだけ新幹線が走るようになると

もう要らないのかもしれないけれど。

何かね、時間が節約できて、早く着く、っていうのは確かに時間を有効活用できて

すごくいいことなんだと思うけれど、

何か、ほのぼのとしたもろもろのものが無くなってしまったような気もする。

これも彼と話して盛り上がったんだけど、

L特急とかに乗ってて駅に着くと駅弁売りのおじさんとかおばさんが来たりとか、

昔のお茶は、プラスチックの容器に入っていて蓋がコップだったとか

あのお茶がどうもプラスチックくさかったとか

話すと色んな「懐かしい」が出てくる(笑)

そうそう、話がそれるけど、私、最近の高速のSAやPAがあまり好きではない。

まずどこのSAやPAにもコンビニがある。便利かもしれないけど

どこも同じでつまんない。

それに妙にきれいになりすぎて、置いてある商品もどこも似たようなものに

なってしまって、やはりつまらない(笑)

「ここに行ったら、あれを食べる(食べたい)」っていう特徴あるものが

何か減ってきている気がするんだよね。

それに、あの小汚い(失礼?)な感じがまたよかったりしたんだけど(私は)。

これもコンビニのせいだと私は勝手に思っている(笑)

いつでもどこでも同じ商品が手に入るという安心感みたいなものはあるかもしれない

だから、仕事で高速を使う人にとってはいいのかもしれないなぁ

かなり脱線してしまった・・・

今の時代は、ものがたくさんあって、それを利用することが誰も可能になって、

そして、便利になりすぎて。

それはいい事かもしれない。

ただなりすぎると、感動することという能力が衰えて行くような気がして

哀しい気もする。

| | コメント (0)

本能

「ねぇおかーさん、今日バスの中でオカマ・・っていうかニューハーフ、見ちゃった」

「へぇ?どうしてわかったの?」

「だってね、長い金髪でピンクのぴちぴちのジーンズみたいなのを穿いてるんだけど

股間がもっこりしてたし、声が男の人だった」

「へぇ?」

「なんか不気味だった」

「そう?私なんかジャスコで声かけられたことあるけど、不気味じゃ無かったよ」

「そうなんだ、でもどうして女装するのかな?」

「うーん、理由なんて多分ないんじゃないかな?ほら、おなか空くとご飯食べたく

なるよね?そーゆーとき別に理由なんか無いよね、おなかが空いたから食べたいって

いう、本能。それと同じなんじゃないかな、多分」

「ふーーーん」

clubclubclub

本能・・よくわからない力だ。

人は意識的に選んでいるものもあれば、無意識に本能で選び取っているものだって

ある。

どうして?って考えても理由が見つからなくて、

でもその奥の奥の奥のほうには、私の知らない私がいたりする。

昨日「居場所」について書いた後、考えてみた。

居場所、ありますか??

自分の本当の居場所。

「居場所って、何?どこ?」

そう感じる人は持っていないのかもしれない。

子どもの頃の私の居場所は、ベット(布団)の中だった。

それも大人になってから、ああ・・ってわかった事で、その時はそんな風に

思っていなかったけれど。

私にとっての居場所は、本能で心地よく感じるところ

ずっと転々としてきた。

無意識に「誰か」の中に求めてきた。(自分じゃ全くわかっていない)

でも、そーいう大切な人がいるということも大事だし、条件の1つだと思うけれど

そこには無いんだということが、少しだけわかってきたような気がする。

clubclubclub

昨日の17歳の彼女は、今のままじゃ、一生懸命踏ん張っても

居場所は見つからないし、多分幸せにもなれない(お兄ちゃんも同じことを

多分思っている)

あの番組、どういう意図で局が作ったのかなんて知らないけど

見る人側からしたら「自業自得」みたいに思う人だっているだろう。

それはそうかもしれない、けど、私は彼女が近くに住んでいたら

友達になりたい。どうしてかって言われてもわからない、本能で感じる何か、

なんだよね。彼女は彼女なりに必死に生きているのが伝わってきた、

だから間違いがあろうとしても、彼女には頑張って生きてもらいたいなぁなんて

思ったりして。

さてさて、今日も一日ふぁいとーpunch

| | コメント (0)

常識?

以前言われたことがある

「安物の常識に捉われない人だ」と。

うーーーん、それは褒め言葉なのかな???(笑)

そもそも常識とは一体・・・

「世間一般でこうあるべきと考えられている行動」のこと?

よくわからない。

私は正直、世間で言う常識から外れたことを結構やっている(やっていた)と

思っているので、常識について語る資格もないのではと思ったりもする。

ただ日常に「子供のために離婚することは絶対よくない」と言い張る人、とか

「仕事をしていると子供がかわいそう」とか言う人は結構いるけれど

(本当に多いのだ)

そういう上辺だけで決め付ける人とは、私は友達には決してなれないのだ(笑)

もう根底の、人間観みたいなのが違う。

もちろん必要なお付き合いはするけれど、決して深入りはしない。

そういう「離婚することはよくない」っていうのも、世間一般で言う常識、なんだろうか、

そうかもしれない。

でも私の両親は離婚してなかったけど、子供が幸せじゃなかったけど(笑)

だから揃ってりゃいいってわけじゃない、っていうのは自分が身を持って知っている。

逆に、幸せな家庭に育った人は、それが「絶対条件」となるんだろうから

そういう考えになるのもわかるような気もしないわけではない??

かといって、「離婚して1人で頑張って育てている」人だとか

「仕事していたって関係ないよ」って言う人がいて、

でも友達になれるか、というと、そうでもないのだ。

そして、逆に「子供が居るから仕事しない」という人でも

仲良くしている人もいるのも事実。

その違いは、一体何か・・・・。

何となくわかっているけれど、上手く言葉にできない。

それらは全て、本能で何かを見分けている・・・・

なんだろう?本能、って。自分の脳なのに、全くわからない、不思議な部分だ・・

| | コメント (2)

ブログとアイデンティティと自己顕示欲と。

以前「ブログが面倒くさくなるとき」ってタイトルで書いたけど。

今現在でも、深く考えると「ブログってなんだか変な場所だなぁ」って思うときがある。

以前Yブログをやっていたとき、途中から特定個人とのやりとりについて

記すことについてすごく嫌な感じに思えて仕方が無く、一切やめることにした。

ここで言う特定個人って、ブログ上で知られている特定個人、っていうことね。

表に見える面(ブログ)で特定の人とやり取りすることを記すという行為そのものが

自己表現&自己顕示欲のような気がしてならなくて、体中がかゆくて(笑)

私は、ブログとリアル生活は別物として扱っているので

もしブログで知り合いリアルにお付き合いする様になったら、やりとりは

ブログという場所の見えるところでは基本的に行わないという主義(?)なのだ。

そういう意味で、私は彼のやっているブログのスタイルは好きではない。

不特定多数に読んでもらいたいと本人は思っているのに

あれでは不特定多数は非常に入りにくい雰囲気をかもし出している。

(本人はそれに気付いているのかどうかは定かではない)

それは彼にもはっきり言ったことがある。そしたら、親しい(男性の)知り合いにも

同じことを指摘されたと(笑)

多分、自己を確認したい場所、でもあるんだろうなぁ

だからああいうスタイルをとっているわけで、それはその人のとりたい形であるから

私がそれ以上口出しすることも無いと思うし、色んな方法でよいのだと思うけれど。

そう考えると、私の今やっているこのブログだって、よく読んでみると

自己顕示欲の塊のような気がする(笑)

誰も自分という存在をアピールしたいと思っているのかもしれない。

ただ、思うのは、やっぱブログはブログなんだ、って。

本当の意味でその人と向き合っているか、というと、そうではないように思う。

本当の人間関係(友人関係)って、ヤな部分もたくさんあって、

いつもきれいなことばかり並べてくれる関係は、私は違う、って感じる。

(もちろん言い方は大事だけど。)

最初は「えー?」って思うけれど、しばらくその言葉を寝かしていて、

また起こしてみると「・・・・なるほど」と頷いたりすることも、ある。

ちなみに私の彼はひどい(笑)

ブログ記事を読んでよくダメだししていたし(笑)

(いや、私もダメだししてるな・・・・)

その時は心から失礼な人だと憤慨したけれど、いま思えば、それも一理あると思ったり、

そういう考え方もあるんだと思えたりする。

話がそれたけど(いや元々まとまっていないか・・・)、ブログは多くの「錯覚」を

覚えてしまうところでもあると、思う。

基本的に違う意見を持つ人はそこに集まらないから。

(もし集まる場合、冷静を通り越して炎上になっている。文字だけのやり取りは

難しいとつくづく感じる)

でもそれではそこから何も進まない。もちろんそこで自分は受け入れられるんだと

はっきりと自覚できたら、次の場所へ移らないといけないんじゃないか、と

最近はっきり思うようになってきた。

基本的にここで書いていることは、言葉を変えて、自分のリアル生活の中で

発信している。(もしくは実際に起こったやり取りを書いている)

Yブログの頃は、ブログだけで発信していたけれど、それでは結局何も変わらないのだと

教えてもらったのもブログで、だから、

ブログも使い方次第なんだろうか?

そしてどう使うかは、やはりその人その人の色んなやり方によるわけで。

「たかがブログ、されどブログ」

て昔書いたけど、やはりそうか、恐るべし、ブログ(笑)

| | コメント (0)

選んだ結果

昨日は同期のAちゃんと飲みにでかけました。

Aちゃんとは年齢も、家も近いから、時々一緒に飲みに出かけたりするんだけど、

彼女は今年事務職へ異動したので、話題は専らそのこと中心。

彼女いわく「(職変)異動するならやっぱ(年齢が)若い方がいいと思う」

そうだよなぁ。新しいことを始めるとき、年齢が上であればあるほど

なかなか吸収しにくくなっているし、慣れるのにも時間がかかったり

なにより指導してくれる人が年下の確立が高くなるのでお互いやりにくい、らしい。

そんな話を延々しながら、思ったのは、

今自分が置かれている状況というのは、自分自身が作り上げた結果、なのだと。

よく「○○だから出来ない」とか「無理」とか言うけど

○○だから出来ない、んじゃなく、「○○だからやらない」なのではないだろうか?と。

要するに○○のせいにしている部分がある、ということ。

本当に本当に心からそうしたい、と思ったとき、目の前に大きな困難があると

予想されても、あらゆる方法を模索して、試し、引き返しながらも進んでいくもの

なのではないだろうか?と。

だから今自分の周りの状況(例えば離婚している、とか仕事の種類、とか

趣味の世界のこと、とか、もろもろ)は自分が選んできた結果がここにあるんだろうなぁ。

今置かれている状況に満足しているか?と言われると、微妙だ。

求めればキリがないけれど、求めなくなったらそこから何も変わらないわけだから

そうはしたくないなぁと思うのと同時に、やはり自分の置かれている状況を

他のものと比べてあーだこーだいうのだけは、しないようにしたいなと、思う。

(まぁ元々そういうのは好きじゃないしマイペースなとこがあるからあまりしてないと思う)

他のもののようになりたければやはり努力するしかないんだろうし

チャレンジして努力してそれでも達成されなかったとしたら、私は絶望するのではなく

いい意味で諦めがつくと、思う(これは人によって違うのかもしれないけれど)

ということで、来年度は区切りもいいし、自分の人生の一部、大きく変えてみようと

決心した飲み会(?)でした。

さてさて。

これからおにぎり作って、出かけます(笑)

(昨日のお酒は多分抜けている・・・・多分)

| | コメント (0)

お役所仕事?

ぴーのかけていた保険(骨折)の請求をするため、郵便局へ行ってきた。

普段は車で5分ほどの大きな(24時間開いている)郵便局へ行くんだけど

今日は徒歩7分ほどの、小さな郵便局へ。

連休前のせいなのか、保険の満期が重なっているのか、

理由はなんだかよくわからないけど、とにかくすごく混んでいて、

順番が来るまで30分ほど待っていた。

狭い場所に多くの人がいて、しかも皆待ち疲れているので

「どよーーん」というイヤな空気がずっと漂っていた。

職員の方は3人居り、とにかく忙しそうにしていて、その姿を見ていたら

なんだかかつての自分を思い出してしまった。

連休前後の外来は予約がいっぱいで、午前中だけで薬のみとりに来る人を含め

予約人数200人なんていう日もあって

そういう日に限って、ややこしい患者さんがわんさとやってきて

電話もじゃんじゃんかかってきて

薬が間違っていると院外薬局から問い合わせが殺到して

挙句の果てに患者さんに怒鳴られる(笑)

こちら側としてはこなせる人数以上の人間が押し寄せてきているわけだから

無理っっっ!!!って思うんだけど、ひとりひとりの患者さんからしたら

ただの1人、なわけで、そりゃ怒れるのは、仕方ないよなぁ、とも思う。

そんなことを思い出しながら、働いている様子を眺めていた。

保険請求にあたって、窓口で質問事項があり、(枚数にして5枚ほどの書類)

受付のお姉さんは私の回答を鉛筆で下書きをしていた。

やっとその質問が終わり、提出書類を全て確認し、そろっていたので

やっと帰れるかぁ・・・・・

・・・・・・・・・・・

呼ばれない

呼ばれない

なぜに?

そこで20分ほど待っていた。

でも呼ばれる気配がない。

そぉーーっと覗いてみると、お姉さんはさっき鉛筆で下書きしていた書類を

清書していた。

・・・むむ・・・?

それは今清書しないとまずいのかな??

あとで書いて、処理するじゃいけないのだろーか?

私だったら、ファイルに1つにまとめておいて、全ての待っている人をこなしたあと

整理するが・・・

ゆうちょはその時全て処理しなければいけないシステムになっているのか?

よくわからないが、他にかなり多くのお客が待っているので

その人たちを捌くことが先のような気がするんだけど。。。。

外来では、とにかく、書類は混雑が治まってから処理をする、というのが当たり前

だったので、診察が終わったらとにかく速やかに次の予約を取り

患者を帰すということが徹底されていた。

もちろんすぐ返すべき書類(他院へ持参する紹介状、保険証など)は

速やかに処理するけれど。

一生懸命書類を清書しているお姉さんを見て、

うーーーんこれがお役所仕事、というのだろーか・・・・・

などと思ってしまった。

(自分も役所人、だが・・・)

待っている間、私はとても居心地が悪かった。

他の人の視線が痛かった。

自分がこれから、もし、また窓口などやるようなことがあったら、

なるべく待たせないような工夫はしたいなぁ。。。

ゆうちょが書類を扱う場合、そのようにやらなければならないシステムだとすると、

お姉さんも本当はしんどい思いをしていたんだろうなあと思うし

とにかくあの混雑状態で仕事をこなすプレッシャーは痛いほどわかるので

お姉さんを責めているのではなく、自分の反省材料にしたいと思ったので

ありました。

あーーしかし保険の請求って、どれも手間取るね(笑)

ま、仕方ないね。

| | コメント (0)

リアル東京、リアル人生  追記。

人間の一番リアルな生きている姿って、セックスしているときなのかもしれない

生々しい、毒々しい、ただの男と女。

でも、ニセモノの「ただの男と女の間」に、リアルなセックスは、ないんじゃないかって、思う。

愛情がなくても、セックスは出来る。

愛情と勘違いしたセックスもある。

でも本物のリアルセックスには、ことばでは表現できない、生のぶつかり合いみたいなものが

存在している、と思う。

人によって色々あると思う。

快感を得るだけに求める人もたくさんいるし、なにかから逃れたくてセックスする人もいるし、

何かを求めてセックスする人も、いる。

でも多分、本当の快感って、結合で得られるそれとはもっと違う、

なんていうんだろう、私は、本能で感じる『何か』。

「文章では嘘がつけない」彼が言っていたことばは、本当だと思うけれど

肌を通して感じる『何か』も多分嘘はつけないんじゃないかって思う。

人の本能は、それ程強い何かを持っている、怖いな(笑)

| | コメント (0)

リアル東京、リアル人生。

200804192039000

一昨年の暮れだっただろうか?

年末に彼と東京デートをしたとき、

早朝に歌舞伎町のマックに入った。

あの時間なのに店内は込んでおり、

私達は2階の端っこの席に座り

コーヒーを黙って飲んでいた。

視界の先に、黒いスーツに金髪のお兄ちゃんが

数人座っている。

いかにもホスト、という感じの彼らは、

一晩中仕事をしていただろうに

妙にハイテンションな雰囲気で、何かしゃべっている。

私の席の横には、作業着を着た、50代くらいのおばさんが1人、座って

食べている。これから仕事に出かけるのだろうか、それとも一仕事終えてきたのだろうか、

それはどちらでもよい、それよりそのおばさんを見た瞬間、

自分と何かがダブった。

「私は少し何かが違っていたら、あのおばさんのようになっていた」

そう思うと、「決して誰も近づけないわよオーラ」を放つおばさんに、妙な親近感を勝手に抱き

そしてあのおばさんのこれまでの人生に何があったのか、

勝手にストーリーを作ってしまったりする。

肩肘張って、世の中に背中を向け、何さこんなもん、そんな感じで座るおばさんは

実は多分きっと、とても繊細な人なんじゃないかと、思ったりする。

そして着ている作業着が、おばさんという存在を更にリアルにさせる。

そのほかにも、どんな職業なのか?おじさんがいたり、若い女性がいたり。

とても妙な空間だったけれど、そこはまさに「リアルトーキョー」

マックだから、歌舞伎町だから、見れる、リアルに生きる人たち。

生きるって、本当に生々しいものだと私は思う。

人の本能って、恐ろしいほどどす黒い血のような感じがしてならない、

どんな苦しいことも、汚いことも、話し方によっては美しく聞こえたり、

都合よく聞こえたりすることもある。

でも、私は美しいだけじゃ生きられない、本能丸出しの部分で

誰かに真正面からぶつかり、時に砕け、時に吸収され、時に融和する、

そういうある種の快感を知ってしまった

(もしかして知ろうとして知ったわけではないのかもしれない、とも思ったりする)

私の生きる、とは何だろう

生きるってリアル、リアルとはじゃぁなんだろう

私は私でしかない、ということなのだろうか

格好つけても、その格好は格好つけている以上いつかどこかで剥がされ、

格好で覆われた自分は私のようで、私ではない。

そうか、だからセックスは私にとって、生きている、という実感を得られる1つの

手段であるのか?と思ったりする。

そしてセックスのあとどうして自分の気持ちがすぅっと出せるのか、

いや自然に出てくるのか

多分セックスしているときの自分が一番自分っぽいのかもしれない。

そう考えると、性とは、やはりヒトにとって、生きるということでとても重要なことに思える。

繋がることだけがセックスとは思わない、

快感を得ることだけがよいセックスとも思わない、

人間の一番リアルな生きている姿って、セックスしているときなのかもしれない。

生々しい、毒々しい、ただの男と女。

そうか、私はただの女だったのか、母でもなく妻でもなく(いや今私は独身だ)

社会人としての私でもなく、ふらわーというネット上の私でもなく

私はただの自分なのか?ということを初めて実感したのは、あの歌舞伎町のマックで、かもしれない。