今学期『自我の社会学』(船津先生)をとった。
生活と福祉専攻の私には一見関係ないようにも思えるけれど
研究(???)してみたいと思っていることと自我のあり方、というのは
必ずしも無関係ではなく、しかもアイデンティティとは一体なんぞや?という
素朴な疑問(言い換えれば基本的なことを知らない)を持っていて興味があったので
とってみた。
教科書はまだ届かないので、今日もサテのものをお借りしたけれど
まず教科書が薄い!(笑)
そして読んでみると、なんて内容がわかりやすいことか!(笑)
「21世紀の社会学」2回目(現代社会における自己の諸相)が、
なんだかわかりづらくて、全体的に用語が難解だし(社会学全般に言えるか)
人もいっぱい出てくるし、教科書を一通り読んだだけでは、私の頭では??だったけれど
この教科書はわかりやすい。
その中で、なるほどなぁ、って思ったのが
「自我はたまねぎのようなものである」(ノートに書いてないので誰のことばか今は不明)
「自我はキャベツである」(山田和夫 2004)
皮を剥いても、何も出てこない、実は剥いた皮がその人の自我を形作っているもので、
それは他の人の期待を意味している。
自我は他者の期待との関係において、社会的に形成されるもので
自分だけで出来上がっているというものではない。
また他者や社会から遊離したとき、自我は自己を見失い消滅するしかないことになる
この科目は「自我は他者との関係においてできるものである」という
前提において語られているので、「いやそうとは限らない」という学問が他にも
あるのかもしれない(私はまだそこまで勉強していないのでわからないが)
ただ、なんとなくなるほどなぁ、と思うことは確かにある。
自分は以前も、子供とか仕事とかボラとか趣味とか、その他もろもろは
自分を構成しているものの1つにすぎなく、それは全て平等に自分の周りに
位置づけられている(あえて言葉で表現するなら)、ということを書いたけれど
そうじゃない「ただの自分」というものが、どこかにあるのでは?と思ったりもしていた。
しかし、実はそんなものはどこにもないのではないか?(今はよくわからないが)
子供(の母であるということ)、仕事(における人との関係性)、ボラ(が好きな自分)、
というもろもろが全て「ただの自分自身」なのかもしれない?
まぁ考えても、何も出てはこないだろうから、そういうものかもしれない、そういう考えが
あるんだということを知ったということだけでも、大きな収穫だ(笑)
いや、「そんなこと今頃知ったのか?」と他の人に思われるかもしれないけど
「知る」ということが、単純にこんなに楽しいことかということがわかったのも
放送大学のおかげかもしれない。
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